5分の遅刻がなぜダメなのか
先日読んだネットの記事で「5分や10分の遅刻を許容できない会社の意味がわからない。重大なアポイントがない中で、なぜ5分や10分、出社が遅れてはいけないのか?それだけで、仕事のパフォーマンスが落ちるわけでもないのに。そういうことを主張するのは、だいたい昭和生まれ。早く、昭和の感覚を捨てて欲しい。」というものです。
似たような議論が、ライナフの中でも過去に起きたことがあるため、記事を読んでそれを思い出しました。
ライナフのメンバーの中でも、5分の遅刻が多い人と、絶対にしない人がいます。
絶対に遅刻しない人は、だいたい、コアタイム(みんなが出社しなくてはいけない時間)の20分前には会社に到着し、出社ボタンを押しています。
(※うちはフレックスタイム制なので、早くきたらその分だけ、勤務時間にカウントされます。僕が働いていた前職の銀行のように、1時間前にきて全部サービス「前」残業、とかなりません。)
本人に、なぜ早めに来るのか聞いたところ、「電車の軽微な遅延もそうですけど、何より、毎日、出勤時間ギリギリになって冷や冷やするよりは、多少、余裕を見たいので。」だそうです。
逆に、軽微な遅刻が多いメンバーは、日常的にコアタイムの5分前くらいに出社する傾向にあります。
集団においての規律の大事さについて、僕は中学の時に、学びました。
当時の教員に対して、なぜ髪を染めてはいけないのか?と質問をしたときの答えです。
「それはね、滝沢君。もし、髪を染めること許したとしよう。
それは、個人のオシャレに対する自由を認めたことになるね。
では、なぜ髪は染めて良いのに、服装は自由ではなく、制服にしなくてはいけないのだい?
それは、おかしいな?と思うよね。
だから、今度は、服装も自由にしたとしよう。
すると、今度はなぜ、髪も服も自由なのに、好きな先生の授業を選ぶ自由がないのかと、おかしいと思わないかい?
さて、ここまで自由にすると、そろそろ、秩序がなくなってめちゃめちゃになっていくのが、わかるよね。
あとは自分で、考えてごらん。」
中学生の僕にとっては、オシャレの自由と先生を選ぶ自由の分別がイマイチつきませんでした。
ですが、大学生くらいになると、上記の理論について「オシャレと授業選択の自由を混ぜるのはおかしい。」と反論できます。
逆に言えば、反論できるくらいに自分の考えを持てるようになったころには、その自由は与えられていたのです。
さて、もう一度、5分の遅刻の話に戻ります。
5分の遅刻をみんながするようになったとします。
みんな、当然のように5分遅刻をするのですから、大事な会議や遅刻して欲しくない時には、集合時間を10分、早めるようになります。
例えば、10時にどうしても仕事をスタートしたい、会議をスタートしたい、という時には、会議の開始時間を9時50分、と設定することになります。
そして、時間を守って9時50分に集まった人たちは、遅刻の人達を待って10分を無駄にし、10時にやっと全員が集まって会議が始まる。
そんな習慣になってくると、今度は「どうせ10時にスタートするんだから、10時ギリギリに行けばよい。」と思う人達が現れて、10時にも遅刻するようになる。
すると今度は、15分~30分遅刻する人たちが増えるため、
会議の開始時間を9時30分にする。
そうやって、遅刻をする人を黙認していくと、どんどん開始時間は形骸化し、時間を守る人たちが損をしていくことになるのです。
いろいろなケースがあるため、遅刻を絶対に許さない!と言いたい訳ではありませんし、僕も打ち合わせに遅刻をすることはあります。
ただ、5分~10分の遅刻は怒らないで!という風潮は、最終的には、真面目に約束を守った人がバカを見てしまうような社会になるため、好きではない、というお話です。